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ひろかず
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地球生まれ NAGANOcity在住

よろこびのたねまきをしたいきまぐれのまぬけ 

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2011年02月04日

木曽義仲の書と伝わる古筆切


紙本肉筆/古筆手鑑崩し古筆本家極札添付

木曽義仲の書と伝わる古筆切です。

古筆切というのは、古筆の断簡。巻物や冊子になった歌集などの古筆を切断したもの。古筆は平安~鎌倉期に書かれた和様書道の名品です。
桃山時代以降、茶の湯の流行にしたがって、古筆が鑑賞の対象として愛好されるようになると、経巻や歌書・消息などの巻子本や冊子装からその一部を切り取って「古筆切」として収集することが流行しました。手鑑は、こうした切を台帳に編集したものです。古筆愛好家たちは、数多くの古筆・名筆を鑑賞するために、古筆切を帳面に貼り込んで手鑑を作成しました。武家や公家においては、手鑑は大切な嫁入り道具ともなったといいます。
また、古筆家、古筆見、あるいは単に古筆と呼ばれた古筆鑑定の専門家(古筆了佐など)は、鑑定の標準とすべき代表的な古筆切を法帖に押した手鑑を携行し、鑑定の基準としました。
この書は、古筆了佐の鑑定(琴山印)がついているので本物かもしれませんね。

古文書の読める先生になんと書いてあるのか読んでいただきました。
「夏草の茂る若葉や」と書いてあるそうです。
清水高原の夏の思い出か、はたまた倶利伽羅峠などの戦場の夏か、京都の東山の風情か、、、、。

朝日将軍 源義仲(みなもとのよしなか)
生年: 久寿1(1154)
没年: 元暦1.1.20(1184.3.4)
平安時代末期の武将。源為義の子義賢の次男。母は遊女と伝えられる。幼名駒王丸。木曾冠者と号す。久寿2(1155)年8月、為義とその嫡男義朝の不和が昂じ、父の意を体して上野・北武蔵に威勢を張っていた義賢は、鎌倉を本拠とする義平(義朝の長男)に武蔵国大倉館(埼玉県嵐山町)で討たれた。義仲は乳母の夫である中原兼遠のもとにかくまわれ、信濃国木曾(現在の朝日村辺りといわれる)で成長した。治承4(1180)年9月、頼朝(義朝の3男で嫡子)にやや遅れて挙兵した義仲は、平氏方の小笠原頼直を越後に追って信濃を手中に収め、父の故地上野に進出したが、頼朝の勢力との衝突を避け、年内に信濃へ戻った。翌年には、横田河原(長野市)で越後の城氏の大軍を、越前水津(敦賀市杉津)で平氏の追討軍を破り、北陸道をほぼ制圧した。寿永2(1183)年、嫡子義高の身柄を鎌倉に託して頼朝と講和した義仲は、平維盛率いる大軍を加賀・越中国境の倶利加羅峠、次いで越前篠原(加賀市)に撃破した。ここで踏みとどまっていれば、関東における頼朝のごとく、北陸道政権への道が開けたかもしれないが、結局義仲は都から越中にかけて形成されていた反平氏の寺社・武士連合勢力に吸引されるようなかたちで、7月に入京した。義仲は、従五位下左馬頭兼越後守、次いで伊予守に任じられ、平氏追討の院宣を受けた。こうして一時は、西海に走った平氏、東海道諸国を押さえた頼朝と並んで「天下三分の形勢」を示したが、兵粮米の徴収問題、安徳天皇のあとの皇位に義仲が擁する北陸宮(以仁王の遺児)を強く推薦したこと、「寿永二年十月宣旨」の適用範囲などをめぐって、とかく頼朝との接近をはかる後白河法皇と対立を深め、ついに同年11月、クーデタを断行、法皇を幽閉し翌元暦1(1184)年1月には、みずから征夷大将軍に任じた。しかし頼朝の命を受けて西上した源義経・範頼軍との決戦に敗れ、逃走の途中、近江国粟津(大津市)で戦死した。世に義仲を朝日(旭)将軍と称し、その供養墓は大津市馬場の義仲寺にある。
出典:朝日日本歴史人物事典  


Posted by ひろかず at 00:10Comments(3)木曽義仲の文献