2010年06月01日
戦国武将⑤ 仁科盛信 高遠歴史探訪その2

版籍を奉還した高遠藩主の内藤頼直の兜と鎧。

高遠で壮絶な戦いをした武将仁科盛信。
信濃の国に歌われる武将は、木曽義仲とこの仁科盛信(信盛とも書きます)の二人です。信州ゆかりのいきいきと最後まで戦いきって逝った代表的武将です。
1582年織田信長の武田攻め(天目山の戦)では、伊那口から攻めあがってきた織田信忠率いる5万の大軍に対し、高遠城に籠り3千の兵を指揮し勇敢に戦いました。そして、討ち死にしました。享年26歳。
このとき、信忠は盛信に降伏を勧告しました。出仕し忠節を誓うのであれば所領は望みのとおりにするし、黄金百枚を差し上げる、と。ところが、盛信は勧告を拒否しました。不当不義の臆病な輩と同じにしないでもらいたい、と降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされています。高遠城を枕に討ち死にした見事さは、敵である織田方からも、比類なき働き、前代未聞の次第と賞賛されたほどです。最後、自らの腹を十文字に斬り、はらわたを掻き出し投げ捨てて果てたとも伝わっています。
武田一族すら続々と兄勝頼を見捨てる中で、仁科盛信は壮絶な抵抗し、武田家最後の輝きを見せたといえます。
この仁科盛信は、甲斐国、武田晴信(信玄)の五男として生まれました。父、武田信玄が、上杉家へ寝返った信濃国安曇郡(大町地域)の名族、仁科盛政を攻め、自害させました。その後、 父、武田信玄の命により、仁科氏の名跡を継ぎ、森城主となり越後国との国境防備を行なっていました。高遠城が落城し、かつては木曽義仲とともに京に上がり、鎌倉幕府御家人となった名門仁科氏一族は、これで滅びてしまいました。
盛信の子供たちは、生き延びて現在まで子孫は続いています。生き延びる際に、身分証明書として持っていたのが信玄のこの絵だったそうです。

写真資料:伊那市立高遠町歴史博物館
前出関連記事:天下第一の桜 高遠コヒガンザクラ
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e458116.html
絵島 高遠歴史探訪その1
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e458146.html
Posted by ひろかず at 00:33│Comments(4)
│戦国武将たち
この記事へのコメント
この画像の原本は?
所有者は?
誰かご存じですか?
所有者は?
誰かご存じですか?
Posted by 建弘 at 2013年04月23日 22:32
建弘さん
よく分かりませんが、学芸員さんに聞いて見られたらどうでしょう。
よく分かりませんが、学芸員さんに聞いて見られたらどうでしょう。
Posted by ひろかず
at 2013年04月24日 00:18

画像の所有者は仁科盛信公17代当主
林 正彦 氏であり、17代より複製の写真を
寄贈したものである。
仁科盛信公の画像は100年忌の際に描かれてものである。
共に17代が所有している。
林 正彦 氏であり、17代より複製の写真を
寄贈したものである。
仁科盛信公の画像は100年忌の際に描かれてものである。
共に17代が所有している。
Posted by 仁科盛信 子孫 at 2013年06月10日 22:11
仁科盛信 子孫 さま
ありがとうございます。
信濃の国でも歌われる仁科盛信は英雄ですね。
ありがとうございます。
信濃の国でも歌われる仁科盛信は英雄ですね。
Posted by ひろかず
at 2013年06月11日 00:29
