2010年05月02日
ものぐさ太郎と清水寺 義仲伝説
お伽草子で、有名な物くさ太郎の話は、子供の頃読みましたが、松本市新村の出身だったのです。
東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に、筑摩の郡あたらしの郷というところに、不思議の男一人はんべりける。ものぐさ太郎ひぢかずと申候。
筑摩の郡あたらしの郷が今の松本市新村にあたると言われています。
洞沢今朝夫氏(日展友会 彫刻家)による彫刻が、新村のものくさ太郎記念公園の中に建てられています。
信州出身で、大成した人物として、興味深いですね。しかも、ものぐさ男。
即興で歌を作る才能と、頭はいいことは確かです。
頭のいい人は、楽をして楽しむ方法をいつも考えているので、ものぐさと人には映るかも。
物くさ太郎お伽草子http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokusa.html
読んで見て、気になったのは、清水寺が出てくること。
清水寺は、信州とゆかりが深く、木曽義仲が関係しているお寺と思います。
前出記事 清水寺 木曽義仲の関連?:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354412.html
この物くさ太郎のサクセスストーリーを聞いた信州の人たちは、京都に憧れ、清水寺での、ガールハントに出かけたくなるのでは。
でも、歌が詠めないとただの助平男で終わってしまいますね。義仲は、かなりのイケメンであったと思われますが、、、。物くさ太郎は、実在なのか、実在で無いなら、、、、どういう教訓の話なのか。ものくさのすすめか。ものくさの私としては、大変興味深いですね。ものぐさ太郎ひぢかずとは、私ひろかずの前世のような気がします。
ただ、私は家内アチに言われるようなスケコマシでは、ありません。(笑)
折口信夫 (1887~1953)が来松した際に詠んだ歌の一つ
「いにしえに物草太郎ありし後 ものくさ人の一人もなし」
この歌は昭和24~25年頃、新村小(中)学校で折口先生に依頼して書いていただいたものです。
折口先生、すみません。ものくさは、一人います、私です。
周辺に植わっている桜は、物ぐさ太郎腰掛桜の何代目かの子孫ということですね。
東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に、筑摩の郡あたらしの郷というところに、不思議の男一人はんべりける。ものぐさ太郎ひぢかずと申候。
筑摩の郡あたらしの郷が今の松本市新村にあたると言われています。
洞沢今朝夫氏(日展友会 彫刻家)による彫刻が、新村のものくさ太郎記念公園の中に建てられています。
信州出身で、大成した人物として、興味深いですね。しかも、ものぐさ男。
即興で歌を作る才能と、頭はいいことは確かです。
頭のいい人は、楽をして楽しむ方法をいつも考えているので、ものぐさと人には映るかも。
物くさ太郎お伽草子http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokusa.html
読んで見て、気になったのは、清水寺が出てくること。
清水寺は、信州とゆかりが深く、木曽義仲が関係しているお寺と思います。
前出記事 清水寺 木曽義仲の関連?:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354412.html
この物くさ太郎のサクセスストーリーを聞いた信州の人たちは、京都に憧れ、清水寺での、ガールハントに出かけたくなるのでは。
でも、歌が詠めないとただの助平男で終わってしまいますね。義仲は、かなりのイケメンであったと思われますが、、、。物くさ太郎は、実在なのか、実在で無いなら、、、、どういう教訓の話なのか。ものくさのすすめか。ものくさの私としては、大変興味深いですね。ものぐさ太郎ひぢかずとは、私ひろかずの前世のような気がします。
ただ、私は家内アチに言われるようなスケコマシでは、ありません。(笑)
折口信夫 (1887~1953)が来松した際に詠んだ歌の一つ
「いにしえに物草太郎ありし後 ものくさ人の一人もなし」
この歌は昭和24~25年頃、新村小(中)学校で折口先生に依頼して書いていただいたものです。
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周辺に植わっている桜は、物ぐさ太郎腰掛桜の何代目かの子孫ということですね。
義仲・巴ら勇士讃える会全国大会in塩尻
木曽義仲由来の日本酒「朝日山」
秋の木曽義仲史跡めぐり⑦ 朝日村
秋の木曽義仲史跡めぐり⑥ 光輪寺
秋の木曽義仲史跡めぐり⑤ 今井神社
秋の木曽義仲史跡めぐり④ 宝輪寺
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Posted by ひろかず at 18:15│Comments(0)
│木曽義仲の史跡探索