2010年03月15日
生安寺地蔵尊 案内看板設置
松本市蟻ヶ崎の生安寺に、松本・義仲復権の会で13日看板を設置しました。
素人の私たちでも、なんとか自分たちで、建立することが出来ました。
このお地蔵様は、松本では一番古いものです。
元暦元年(1184年)1月、木曽義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれました。
父・義仲が討たれたことにより、人質として頼朝の娘大姫のいいなずけとして、鎌倉にいた義高の立場は悪化します。4月21日、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとします。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた海野幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出するのでした。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じました。義高は4月26日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党藤内光澄に討たれました。享年12才。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日、藤内は晒し首にされました。
この頃から、政子が頼朝に、愛想を尽かし、任せて置けないと政治面でも仕切るようになったのではないかと思います。
この地蔵は、大姫と政子が源義高のふるさと松本に供養のため贈ってきたものといわれています。
その後、大姫は、すべての縁談を断り、嘆き哀しんで、病の末20歳前に亡くなっています。
悲恋の地蔵尊は、幼い二人の恋愛のひと時の幸せを想いだすかのように、やさしく微笑んでいます。
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Posted by ひろかず at 01:01│Comments(0)
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