首かけイチョウと松本楼
幹周6.50m
樹高30m弱
老舗レストラン松本楼のガーデンテラスの脇にある大イチョウ。
別名“首かけイチョウ”。
名前の由来は、明治32年頃、当時道路拡張のため伐採されようとしていたこちらの大イチョウを、日比谷公園の生みの親である本多静六博士が公園内に「首をかけても移植させる」と言って、見事移植に成功し守り抜いたという話からだそうです。
こちらの大イチョウのパワーを浴びながら食事が楽しめるのが創業明治36年「松本楼」。
イチョウの葉っぱがテーブルに落ちてきたら、そっと本にはさんでしおりにしてください。
日比谷 松本楼
東京都千代田区日比谷公演1-2
TEL 03-3503-1451
松本楼について (ウィキペディアより引用)
1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた 小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンした。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどだった。日比谷公園が日比谷焼打事件など、度々政治活動の舞台となっていたこともあり、バルコニーから憲政擁護の演説が行われた。
1923年9月に関東大震災により焼失。その後バラック住宅から復活し、これを機に小坂光雄が2代目社長となる。梅吉はその後1936年に貴族院議員に当選している。その後太平洋戦争に突入するまで、引き続き人気のあるレストランとして日比谷公園の顔になった。
しかし1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年2月、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となり、終戦後にはGHQ宿舎として接収され、約7年に渡り営業できない日々が続いた。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切る。
その後も日比谷公園で営業を続けていたが、1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し、その中で左翼過激派学生の投じた火炎瓶が松本楼を直撃し、2代目建物も焼失の憂き目にあう。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要した。これを機に10円カレー(毎年9月25日に限り、先着1500名に限り10円で振る舞われ、現在も毎年この日には大勢の来客があり、度々ニュースでも取り上げられている。なお、この売上は交通遺児育英会や日本ユニセフ協会、1995年には阪神淡路大震災の義援金として寄付されている)が始まる。
3代目建物には結婚披露宴会場、大小の宴会場やフランス料理コースの個室など、様々なニーズに応えた設備も登場。2度の焼失にあいながらも1983年には創業80年記念に1日店長として森繁久弥を迎え、2003年には創業100年を迎え、現在に至っている。
第二次世界大戦前には、日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボース、また2008年には中華人民共和国の胡錦濤国家主席も来店した。文学の面では高村光太郎の智恵子抄をはじめ、夏目漱石、松本清張などの作品にも松本楼が舞台として登場し、時代を超えて公園の象徴的存在の一つであり続けている。
(以上引用)
すごい歴史あるレストランですね。
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