2011年04月26日
神風特攻隊の夢 壮絶大西瀧治郎 憂国三島由紀夫
晴れやかな笑顔の特攻隊員と鳥浜トメ
『ホタル帰る
――特攻隊員と母トメと娘礼子」
軍の指定食堂を経営する鳥浜トメは長女の美阿子と次女の礼子とともに、出撃する特攻隊員を温かく迎え、送りだしました。隊員たちもトメを実母のように慕ったといいます。トメの生き方と特攻隊員たちの最後の様子を、トメの娘礼子がありのままに語った感動の物語です。
本書で紹介されている特攻隊員たち
稲田光男伍長(飛行第103戦隊。昭和20年5月10日出撃戦死、18歳)
新田豊蔵伍長(飛行第103戦隊。昭和20年5月25日出撃戦死、18歳)
光山文博少尉。富屋に来た最初からトメに「ぼくは朝鮮人です」と言っていました。出撃の前夜(昭和20年5月10日)、祖国の歌アリランを泣きながら歌ったそうです。
宮川三郎軍曹(第10武隊)は、出撃の前夜(昭和20年6月5日)、富屋でトメに、「死んだらまた小母ちゃんのところへ、ホタルになって帰ってくるよ」と言い残して鹿児島県知覧基地から出撃していきました。そして不思議なことにその夜、トメの家に本当に一匹のホタルが入ってきたというのです。
日本陸海軍による組織的な航空特攻は1944年10月21日のレイテ沖海戦での海軍・久納好孚の出撃からはじまり(通史では同年10月25日の海軍神風特別攻撃隊敷島隊・関行男による特攻が最初とされている)、敗戦の日の8月15日までの全日数299日、内147日間にわたり実施され、戦死者数は海軍2500人前後、陸軍1500人前後、計4000人前後。
陸海軍航空特攻隊出撃年表〔比島・沖縄作戦〕
http://www1.ocn.ne.jp/~syowa/A207.html
仔犬を抱く平均年齢17歳の神風特攻隊員
小説「徳川家康」や「明治天皇」の作家である山岡荘八は、戦時中海軍報道班員でした。その山岡荘八が回想の中で昭和20年5月11日に鹿屋基地を飛び立った特攻隊の神雷爆装戦闘機隊筑波第一隊長西田中尉についてのエピソードを書いています。
彼の出撃していったのは5月11日。その二日前に死に装束の一部である新しい飛行靴が配給された。と、すぐさま彼は、しばらくあとに残ることになった部下の片桐一飛曹を呼んだ。
「そら、貴様にこれをやる。貴様とおれの足の大きさは同じだ」すると、いかにも町のアンチャンといった感じの片桐一飛曹は、顔色変えてこれを拒んだ。
「頂けません。隊長の靴は底がパクパクであります。隊長は出撃される…いりません」
「遠慮するな。貴様が新しいマフラと新しい靴で闊歩してみたいのをよく知っているぞ」
そう言ってから「命令だ。受取れ。おれはな、靴で戦うのでは無いッ」
そうした中尉の態度は、もう何を訊ねても、そのために動揺するような気配は全くなかった。
そこで私は古畳の上に胡座して、教え子に最後の返事を書いている彼に、禁句になっている質問を矢つぎ早に浴びせていった。この戦いを果たして勝ち抜けると思っているのかどうか? もし負けても、悔いはないのか? 今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなどを… 彼は重い口調で、現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期は克服していること。そして最後にこうつけ加えた。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にも繋がっていますよ。そう、民族の誇りに…」
私は、彼にぶしつけな質問をしたことを悔いなかった。と、同時に彼がパクパクとつまさきの破れた飛行靴をはいて、五百キロ爆弾と共に大空に飛び立っていったとき、見送りの列を離れて声をあげて泣いてしまった。
第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将は、「特攻生みの親」などと呼ばれていますが当初「特攻は統帥の外道である」とし、特攻隊の編成には反対の立場をとっていたとされています。
記者が「長官、特攻隊で戦況が挽回できるのですか」と尋ねると、それに対し大西中将はこう答えました。
「この戦争は勝てぬかも知れぬ。しかし、ここで青年が起たなければ日本は滅びますよ。青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を国民が記憶する限り、日本と日本人は滅びないのです。」
日本の敗戦を見とどけると、大西瀧治郎は8月16日、「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決。遺書には特攻で散華した兵士達への謝罪と共に、生き残った若者に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭しています。自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために「死ぬときはできるだけ苦しんで死ぬ」 という言葉どおり夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだといいます。享年54歳。壮絶な死に様でした。
辞世の句
「これでよし 百万年の 仮寝かな」
「すがすがし 暴風のあと 月清し」
特攻隊員であった緒方襄命さんという人の、出撃前の辞世の句。
「清がすがし 花の盛りにさきがけて 玉と砕けむ丈夫我は
死するとも なほ死するとも 我が魂よ 永久にとどまり御国まもらせ」
三島由紀夫著:英霊の声
我らの熱情は技術者の冷静さと組み合わされ、我ら自身の死の有効度のための、精密な計算に費やされていた。・・・・ 我らは時折、遠く小さい清らかな神のことを考えた。・・・・ 距離を急いでつづめようと思うこともなかった。・・・・・・ 最後には愛機の加速度を以て突入してゆく死、目ざす敵艦の心臓部にありありと我らを迎えて両手を広げて待つであろう死、その瞬間に、我らは あの遠く小さい清らかな神の おもかげを、死の顔の上に見るかもしれなかった。そのとき 距離は一挙にゼロとなり、我らと あの神と死とは一体になるであろう。自ら神風となることとは、・・・・人をして我らの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。・・・陛下は決して、人の情と涙によって、我らの死を救おうとなさったり、我らの死を妨げようとなさってはならぬ。・・・・ 神のみが、青春のこのような 壮麗な屠殺によって、我らの生粋の悲劇を成就させてくれるであろうからだ。そうでなければ、我らの死は 愚かな犠牲にすぎなくなるであろう。
子供の頃、三島由紀夫が1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)のバルコニーで演説しクーデターを促し割腹自殺を遂げた三島事件がありました。図書館に三島由紀夫の本を見つけて、狂ったおじさんの代名詞として扱ったものです。
三島由紀夫は、戦後日本がアメリカナイズされ、武士道精神が消えうせ、平和ボケしていく世相が許せなかったのですね。60年安保闘争にショックをうけた米国は、日本の反米意識をなくすため、ビートルズを日本武道館に送り込んだり、PLAYBOYなど男性誌や洋画で、セックスアピールの強い文化を持ち込んだり、大阪万博を開催して前衛芸術の岡本太郎などを体制側に取り込んだりしてきました。おかげで、80年は安保なし、完全に日本人の武士道精神の骨抜き作戦に成功しました。もはや、敗戦ということも意識しないほど平和ボケした日本。エコノミックアニマル化の末、バブル崩壊、大不況、日航機墜落、巨大地震、大津波、放射能汚染、この次は大飢饉がやってきます。そろそろ、今世界はどうなっているのか、なぜユーロが出来たのか、なぜ中東やアフリカで戦争が起こっているのか、ドルはただの紙切れになりそうなのに大量の米国債を買わされて、、、、日本ほど選挙の投票率の低い国はありません。もっと、世界の動き、何が起こってるのか、世界一斉デジタル放送化とは、世界共通国民背番号制[日本での名称は住民基本台帳ネットワークシステム(「住基ネット」と略す)]とは、、、と、国際情勢に関心を持っていかないと気が付いたら本当に獣(ビースト:原子爆弾を投下した人たちはいまでも我々をこう呼んでいます)以下の処遇にされてしまいます。
神風特攻隊とはなんだったのか。日本の200年後のために果てていったといわれる、何千人もの若者たちの英霊の声を今聞くべきだと思います。
アメリカがいまでもアジアの中で唯一日本にある種の恐怖をわずかでも持っている理由は、特攻、玉砕精神を見せ付けられたからなのだと言われています。占領統治時代あまり敗戦国だからといって虐めていくと、武士道精神が何を起こすか分からないと不安だったと言います。
勝てないかもしれない、でも負けない日本。がんばれ!
Posted by ひろかず at 02:46│Comments(0)
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