2013年02月04日
義仲・巴ら勇士讃える会全国大会in塩尻
義仲・巴ら勇士讃える会全国大会が塩尻で開かれました。
全国から義仲顕彰運動の方々が集結しました。
演壇は、木曽宗家33代木曽義明氏。
太鼓が威勢よく響きます。
義仲ゆかりの小野神社憑飛踊(ためのひおどり)太鼓です。
http://youtu.be/Ogi8Em76vMM
迫力ありますね!
恵那から落合五郎の末裔の中川さんご夫婦もご来場。
落合 兼行(おちあい かねゆき)は、平安時代末期の武将。中原兼遠の五男。樋口兼光、今井兼平の弟。巴御前の兄または弟。木曾義仲の重臣。義仲四天王の一人。信濃国との境の美濃国恵那郡落合村(現在の岐阜県中津川市落合)に館を構え、落合五郎兼行と称した。
信濃国との境である美濃国恵那郡落合村に、西からの備えのため館を構えていたと言われている。現在、岐阜県中津川市落合には、落合五郎兼行之城跡の碑があり、地元では「おがらん様」の名で親しまれている。(ウィキペディアより)
レザンホールでは義仲武者絵、史跡資料など展示しました。
観劇「白き虹の彼方に」-旭将軍木曽義仲と巴御前-
800年を越えよみがえる感動のシーン。
2013年01月19日
木曽義仲由来の日本酒「朝日山」
「久保田」で全国的に知られる新潟県のトップメーカー朝日酒造の純米酒「朝日山」です。天保元年(1830)に創業した蔵元です。木曽義仲の家来が新潟県長岡市朝日に住みつき、亡主「朝日将軍」の名にちなみこの地が「朝日」と命名されました。持参の義仲愛用の天国の太刀を祭った「朝日神社」と呼ばれる神社のある小高い山が「朝日山」と呼ばれています。「朝日山」の酒銘は蔵の正面に位置するこの山から名付けられました。仕込み水には、剣権現の境内に湧く”宝水”が使用されています。造りにあたるのは越後杜氏です。
純米酒なのに後味のキレがよく、今の時期ぬる燗で温めて飲むには最高です。
県外のメーカーが義仲の顕彰をしていただいて嬉しいですね。
2012年11月12日
秋の木曽義仲史跡めぐり⑦ 朝日村
足無神社。
義仲を監視した平家の間者が凍傷で死に、村民が祠を建てたといいます。
足の病気の人がよく参拝したとか。
野俣沢林間キャンプ場には義仲公園があります。
長峰越えの際ここで休憩したといいます。義仲公祠があります。
御馬越え入口の高見台跡。京に通じる秘密の街道があったとか。
2012年11月08日
秋の木曽義仲史跡めぐり⑥ 光輪寺
朝日村光輪寺。
朝日村には沢山の義仲史跡があります。
茅葺の薬師堂は風格があります。棟梁は木曽宮の越の中村氏ということで、義仲復権に熱心な日義との関連が見えますね。
木彫りの彫刻が素晴らしいですね。
木曽義仲お手植えの桜です。二代目ということです。
碑も建てられています。
この光輪寺の薬師堂内には開基750年祭記念で碑が建てられています。
日本一の製糸工場を松本に作った実業家今井五介が中心になって建てたようです。今井兼平の末裔のようです。
粟津原という珍しい姓の方々が多く寄付されています。義仲が果てた粟津から帰ってきた家臣の末裔かと思われます。
タグ :義仲
2012年11月07日
秋の木曽義仲史跡めぐり⑤ 今井神社
お腹がすく前に栄養補給。いつものSOYJOYです。
ブラックコーヒーは手が冷たかったので温めるのに。
WANDAのブラックコーヒーはおいしいのですが、置いてある店が少ないですね。
今井の郵便局の近くにある中原氏の邸宅跡。
義仲をかくまった信濃の国主中原兼遠。800年以上前のことなのによく場所が分かりますね。
今井神社は、中原兼遠の息子の今井兼平の居城跡といわれています。
案内板に兼平のことが書かれています。
前出記事:木曽義仲の四天王 今井兼平の墓お墓は、琵琶湖のほとり粟津原にあります。
2012年11月06日
秋の木曽義仲史跡めぐり④ 宝輪寺
今回はサイクリングで、松本平の義仲史跡めぐりをします。
鎖川沿いを上流の今井、朝日村に向かって走ります。
天気はとてもよく、北アルプスには雪がもう積もっています。
稲刈りも終わり、藁のロールにしたものが苅田に転がっています。
子供のころは、下校の時に、この苅穂のごつごつしたところを踏んで歩いたものです。
日陰はかなり寒いです。
足にしもやけが出来そうなので、靴の上からソックスとつま先ガードを付けました。
リンゴの実るシーズンですね。
こういうのどかな道はいいですね。
今井の宝輪寺に着きました。
ここは、義仲の義兄弟今井兼平開祖のお寺です。
今井兼平の説明看板があります。
これは、今井兼平顕彰碑です。
タグ :義仲
2012年11月04日
秋の木曽義仲史跡めぐり③ 義仲館資料館
木曽町日義の義仲館資料館には蝋人形など展示され古の戦いを偲ぶことが出来ます。
スーパーウーマン巴御前。
銅像もあります。30代前半の義仲をもう少し若くしたほうが、、、。
近くの巴淵。
紅葉がきれいでした。
能楽で巴を上演。
義仲にお前は生き延びろと言われた無念さが偲ばれます。
2012年11月03日
秋の木曽義仲史跡めぐり② 木曽の風情と徳音寺
木曽福島の町並みはタイムスリップしたようで味があります。
粋なアイスクリーム屋さんがありました。
ぜんまい仕掛けの柱時計が懐かしいですね。
よくこんなに寄り添って建物を建てたものです。
川の水がとてもきれいでした。
この橋は、世界で初めて作られたコンクリート橋だそうです。
徳音寺。巴御前の少女時代のモニュメント。
巴御前の乗った馬の蹄で穴が開いたという石。
木曽義仲公霊廟。
義仲の墓を中心に、右側に母小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑が並んでいます。
2012年10月31日
秋の木曽義仲史跡めぐり① 興禅寺
市民タイムス主催の義仲・巴能楽鑑賞イベントに参加しました。
木曽方面の史跡伝説地を巡ります。
ちょうどNHK大河ドラマでは、平清盛と義仲が戦う頃ですね。
木曽氏・山村氏代々の菩提寺で、木曽三大名刹のひとつに数えられる興禅寺。
この寺は、木曽氏十二代信道が木曽義仲の追善のため、永享六年(1434年)に再興したものといわれています。
本堂の前に広がる「看雲庭」は、現代作庭家重森三玲によるもので、木や草を用いない枯山水の庭としては日本一の広さを誇り、雲海の美をテーマにした見事な景観を見せています。
さくらちりをへたるところ旭将軍の墓。
本堂裏の山すそに、義仲をはじめ木曽氏歴代の墓碑が静かに建ち、義仲の墓には巴御前に託した遺髪が埋葬されています。
義仲の墓。
きちんとした案内板も用意されています。
木曽方面の史跡伝説地を巡ります。
ちょうどNHK大河ドラマでは、平清盛と義仲が戦う頃ですね。
木曽氏・山村氏代々の菩提寺で、木曽三大名刹のひとつに数えられる興禅寺。
この寺は、木曽氏十二代信道が木曽義仲の追善のため、永享六年(1434年)に再興したものといわれています。
本堂の前に広がる「看雲庭」は、現代作庭家重森三玲によるもので、木や草を用いない枯山水の庭としては日本一の広さを誇り、雲海の美をテーマにした見事な景観を見せています。
さくらちりをへたるところ旭将軍の墓。
本堂裏の山すそに、義仲をはじめ木曽氏歴代の墓碑が静かに建ち、義仲の墓には巴御前に託した遺髪が埋葬されています。
義仲の墓。
きちんとした案内板も用意されています。
2011年01月30日
木曽義仲が焼き討ちにした法住寺
京都等身大の1000体の観音立像で有名な三十三間堂の隣にある法住寺。
法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、平安時代末期の寿永2年(1183年)11月19日、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデター。その舞台となったお寺です。
2011年01月24日
木曽義仲の四天王 今井兼平の墓
琵琶湖の畔、粟津原、石山駅のすぐそばに今井兼平のお墓があります。
江戸時代になって、兼平を尊敬した膳所(ぜぜ)藩主本多俊次(ほんだとしつぐ)が墓を建立したされています。現在の墓は、今井家末裔(まつえい)によって整備され、「今井四郎兼平」と彫られた丸みのある石でできています。
今井四郎兼平は、木曽義仲の四天王のひとり。主従関係というより、幼馴染で兄弟のような間柄でした。
粟津原の合戦で、主君木曽義仲の最期を見届けた兼平は、勇猛にも単騎敵中に入り込み、
「今は誰をか囲はんとていくさをすべき。これ見よや、剛の者の自害する様。手本にせよや、東国の殿ばら」
と言って、太刀の切っ先を口にくわえて馬から逆さに落ちかかり、わが太刀に貫かれて死んだといいます。
手本にするには壮絶過ぎる最期ですね。
鎮魂碑。
松本にある今井神社は、今井兼平の住居跡で神社となっています。
謡曲(ようきょく)「兼平」の紹介立て札。
粟津原の合戦の碑。
今も涼やかな琵琶湖。
粟津原の合戦後、信州に帰ってきた義仲家臣たちの一部は、主君の遺品など持ち帰り朝日村に居住し、その末裔は粟津原という姓を名乗っています。朝日村に粟津原という姓の多い集落が今もあり、ご苦労様なことでと思っていましたら、私の祖母の実家は朝日村で粟津原姓ということが数年前分かりました。主君義仲を復権する血がながれているのかも。
2011年01月21日
木曽義仲法要 八坂の搭
八坂の搭といえば京都のシンボルともいえる搭です。
法観寺の敷地内に八坂の搭はありますが、搭以外には目だった建物はないお寺です。
この敷地内に義仲の首塚があることはあまり知られていません。寺の入り口の案内板にも書かれていません。
20日義仲の命日にはここでも法要が行なわれました。義仲の復権を願う全国のファンが集まりましたが、京都府内の方はほとんどきていませんでした。NHK大河ドラマにでも主役となれば違うと思いますが、、、、、。
寺のご住職様も木曽から来たご婦人方が歌をまた聴かせてくれて喜んでいました。
清水寺の周辺に埋められていた義仲の首は、その後何箇所か塚を移動してきたようです。ここからはもうここに永住していただきますとご住職が約束してくれました。
もう大丈夫ですって。
安らかにお眠りください。
ここでも木曽節の奉納でしめます。
巴松。
木曽義仲の妻巴御前は、義仲敗死後は和田義盛を頼りました。しかし、義盛も和田の合戦で戦死したので、かつて砺波山で一緒に戦った友人である石黒太郎光弘を頼って、南砺市(福光)に草庵を建て尼僧となり「兼生尼」と号し定住しました。九十一歳で入寂と伝えられています。その跡に一本の松を植えましたが、樹齢を重ね巨松となり傘状に広がっています。この地を巴塚と称し町民に親しまれていますが、その松の苗木を左の得能さんが寄贈植樹したものです。
隣の奥さんは、八坂の搭の向かいの喫茶ラベンダーのママ。
喫茶ラベンダーに義仲と松本平のマップをおきましたよ。
2011年01月20日
義仲法要 義仲寺
本日1月20日は(木曽)源義仲の命日です。大津の粟津で法要がありました。
義仲は近江国粟津(現滋賀県大津市)にて多勢の義経軍に追い詰められ、自害を覚悟して松原に踏み込もうとしたところ、馬の脚が田のぬかるみに取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にしたとされています。粟津(原)の戦いといわれています。
義仲の墓所は、室町時代に没地近くに開かれた朝日山義仲寺(滋賀県大津市馬場)にあります。義仲寺は江戸時代の俳人松尾芭蕉の墓があることでも有名な寺です。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の隣に葬って欲しいと言っていたので一緒にここに眠っています。
義仲の墓
芭蕉の墓
義仲ファンの歴女も訪れています。
翁堂。
義仲を葬った巴御前の巴塚。
朝日堂にて法要。800年以上前の武将の法要です。
壮絶な最期でしたが、800年後の人々に法要を命日にしてもらえるのは嬉しいことですね。
芭蕉は、大の義仲ファンでした。境内には芭蕉の句碑も沢山あります。
義仲公御和讃
木曽節奉納。
お神酒が振舞われました。
歴女がお子様連れでご参加。将来、この法要を継いでね、ボク。
2010年05月02日
ものぐさ太郎と清水寺 義仲伝説
お伽草子で、有名な物くさ太郎の話は、子供の頃読みましたが、松本市新村の出身だったのです。
東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に、筑摩の郡あたらしの郷というところに、不思議の男一人はんべりける。ものぐさ太郎ひぢかずと申候。
筑摩の郡あたらしの郷が今の松本市新村にあたると言われています。
洞沢今朝夫氏(日展友会 彫刻家)による彫刻が、新村のものくさ太郎記念公園の中に建てられています。
信州出身で、大成した人物として、興味深いですね。しかも、ものぐさ男。
即興で歌を作る才能と、頭はいいことは確かです。
頭のいい人は、楽をして楽しむ方法をいつも考えているので、ものぐさと人には映るかも。
物くさ太郎お伽草子http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokusa.html
読んで見て、気になったのは、清水寺が出てくること。
清水寺は、信州とゆかりが深く、木曽義仲が関係しているお寺と思います。
前出記事 清水寺 木曽義仲の関連?:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354412.html
この物くさ太郎のサクセスストーリーを聞いた信州の人たちは、京都に憧れ、清水寺での、ガールハントに出かけたくなるのでは。
でも、歌が詠めないとただの助平男で終わってしまいますね。義仲は、かなりのイケメンであったと思われますが、、、。物くさ太郎は、実在なのか、実在で無いなら、、、、どういう教訓の話なのか。ものくさのすすめか。ものくさの私としては、大変興味深いですね。ものぐさ太郎ひぢかずとは、私ひろかずの前世のような気がします。
ただ、私は家内アチに言われるようなスケコマシでは、ありません。(笑)
折口信夫 (1887~1953)が来松した際に詠んだ歌の一つ
「いにしえに物草太郎ありし後 ものくさ人の一人もなし」
この歌は昭和24~25年頃、新村小(中)学校で折口先生に依頼して書いていただいたものです。
折口先生、すみません。ものくさは、一人います、私です。
周辺に植わっている桜は、物ぐさ太郎腰掛桜の何代目かの子孫ということですね。
東山道みちのくの末、信濃国十郡のその内に、筑摩の郡あたらしの郷というところに、不思議の男一人はんべりける。ものぐさ太郎ひぢかずと申候。
筑摩の郡あたらしの郷が今の松本市新村にあたると言われています。
洞沢今朝夫氏(日展友会 彫刻家)による彫刻が、新村のものくさ太郎記念公園の中に建てられています。
信州出身で、大成した人物として、興味深いですね。しかも、ものぐさ男。
即興で歌を作る才能と、頭はいいことは確かです。
頭のいい人は、楽をして楽しむ方法をいつも考えているので、ものぐさと人には映るかも。
物くさ太郎お伽草子http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokusa.html
読んで見て、気になったのは、清水寺が出てくること。
清水寺は、信州とゆかりが深く、木曽義仲が関係しているお寺と思います。
前出記事 清水寺 木曽義仲の関連?:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354412.html
この物くさ太郎のサクセスストーリーを聞いた信州の人たちは、京都に憧れ、清水寺での、ガールハントに出かけたくなるのでは。
でも、歌が詠めないとただの助平男で終わってしまいますね。義仲は、かなりのイケメンであったと思われますが、、、。物くさ太郎は、実在なのか、実在で無いなら、、、、どういう教訓の話なのか。ものくさのすすめか。ものくさの私としては、大変興味深いですね。ものぐさ太郎ひぢかずとは、私ひろかずの前世のような気がします。
ただ、私は家内アチに言われるようなスケコマシでは、ありません。(笑)
折口信夫 (1887~1953)が来松した際に詠んだ歌の一つ
「いにしえに物草太郎ありし後 ものくさ人の一人もなし」
この歌は昭和24~25年頃、新村小(中)学校で折口先生に依頼して書いていただいたものです。
折口先生、すみません。ものくさは、一人います、私です。
周辺に植わっている桜は、物ぐさ太郎腰掛桜の何代目かの子孫ということですね。
2010年04月09日
なんじゃ、、、これ?
ダリの絵のような、不思議な造形物が、、、、!
神社の跡地らしいです。でも、これだけ残す意味はなんなのでしょう。
この大きなご神木に秘密がありそうです。
この場所と古さからして、木曽義仲にも関係のあった地かもしれません。
松本市今井
2010年03月27日
義仲ウォーキング 小枝御前コース後編 古き歴史香る洗馬
22日(月)の義仲ウォーキング後編です。
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e427142.html
思ったより、歩かせすぎではないかと感じましたが、皆さん頑張って歩いてくれました。
10キロは歩きましたね。
普段、車ばかりのって歩かないので、こういう機会に歴史散策するのは、健康にも良いですね。
道端の道祖神。私は、こういうのみて、ほっとします。夫婦は、仲良くかたくんで、手をつないで前進していきたいものです。
どちらかが、尻の下敷きになったり、暴力を振るったりしている道祖神はありません。
寒い冬の日、暑い夏の日、穏やかな春の日、さわやかな秋、いつでも対等に、同志として、同じ方向を向いて、夢を語り合って、励ましあって、微笑ましい家庭を築いて行きたいものですね。
参考:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e349335.html
モコたん背負って、百瀬さんも元気に歩いています。
のどかですね。
こんなに小さいおうちが。 人間畳一畳あれば、暮らせますから十分かな?
本洗馬歴史の里資料館・釜井庵
伝説 夜泣き石 洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く とあります。
夜泣き石アップ 天文24年(1555年)に三村長親という武将が、家臣213名とともに甲府で虐殺されたという話ですが、怖いですね、夜にここにくるのは。
館長さんから、洗馬出身の医学者で、長野県最初の文化勲章受賞者でもある熊谷岱蔵について紹介がありました。インシュリンの研究や結核、特にBCG・化学療法の普及に貢献したそうです。
この庵は戦国時代にこの地域を支配していた三村氏の居館跡に建つ庵で、建築年代は18世紀中頃。江戸時代の文人で紀行家の菅江真澄が天明3年(1783)にこの地を訪れ、この釜井庵を拠点に一年あまりを過ごしたということです。
慈眼山心念堂 ここの裏山に義仲の伝説の鏡石があるそうですが、場所が良くわからないです。
鏡石について
従兄弟の長瀬判官代が、洗馬の西山で行方不明になった義仲の馬捜しを義仲としていました。夕暮れになり、やっと赤黒毛馬を見つけ一安心。樹木が茂る間道を沢伝いに下っていったところ、突然暗がりから強い光が射し、馬が高く跳ね上がり、さすがの義仲も落馬してしまったそうな。光りの出所は、鏡のような石に月があたり、反射していることがわかりました。ということです。ぜひ、この石を見つけたいものですね。
この石は、拓本で有名らしいのですが、とられすぎて、何が書いてあるかわからないほどです。
ミズバショウが咲いていました。
槻井泉神社。天狗の藤があります。まだ咲いてませんが、いい一本桜の木がありました。
長い階段を上っていくと、立派な本堂もありました。
義仲が戦勝祈願をしたのではないかと思われます。
立派なお屋敷塀ですね。 この辺のおうちは、石垣もふんだんにあり、豊かそうです。(昔はすくなくとも、、、^^)
義仲の一族の長瀬判官代開基の東漸寺。
義仲没後、兵火に遭い、しばらく寺跡のみでしたが、洗馬出身の僧愚底上人によって復興されました。
その後、千葉県松戸市にも東漸寺を開きました。松戸の古文書に、寺の由来や義仲との関係がかかれています。
ここのしだれ桜は、塩尻市天然記念物。お花見にどうぞ。
お昼は、長瀬判官代なべと勝どきがゆをいただきました。
大きななべで、煮ると旨いですね。120名分の食事を一度に炊いた飯沼さん、大変ご苦労様でした。
看板除幕式です。
全4回義仲ウォーキング参加した方、飯沼さんの子供たちなどで。
長瀬判官代は、宇治川の戦いで、壮絶な戦いをし、四条河原で戦死したことが、源平盛衰記に書かれています。
モコたんと百瀬さん。
お疲れ様でした。
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e427142.html
思ったより、歩かせすぎではないかと感じましたが、皆さん頑張って歩いてくれました。
10キロは歩きましたね。
普段、車ばかりのって歩かないので、こういう機会に歴史散策するのは、健康にも良いですね。
道端の道祖神。私は、こういうのみて、ほっとします。夫婦は、仲良くかたくんで、手をつないで前進していきたいものです。
どちらかが、尻の下敷きになったり、暴力を振るったりしている道祖神はありません。
寒い冬の日、暑い夏の日、穏やかな春の日、さわやかな秋、いつでも対等に、同志として、同じ方向を向いて、夢を語り合って、励ましあって、微笑ましい家庭を築いて行きたいものですね。
参考:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e349335.html
モコたん背負って、百瀬さんも元気に歩いています。
のどかですね。
こんなに小さいおうちが。 人間畳一畳あれば、暮らせますから十分かな?
本洗馬歴史の里資料館・釜井庵
伝説 夜泣き石 洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く とあります。
夜泣き石アップ 天文24年(1555年)に三村長親という武将が、家臣213名とともに甲府で虐殺されたという話ですが、怖いですね、夜にここにくるのは。
館長さんから、洗馬出身の医学者で、長野県最初の文化勲章受賞者でもある熊谷岱蔵について紹介がありました。インシュリンの研究や結核、特にBCG・化学療法の普及に貢献したそうです。
この庵は戦国時代にこの地域を支配していた三村氏の居館跡に建つ庵で、建築年代は18世紀中頃。江戸時代の文人で紀行家の菅江真澄が天明3年(1783)にこの地を訪れ、この釜井庵を拠点に一年あまりを過ごしたということです。
慈眼山心念堂 ここの裏山に義仲の伝説の鏡石があるそうですが、場所が良くわからないです。
鏡石について
従兄弟の長瀬判官代が、洗馬の西山で行方不明になった義仲の馬捜しを義仲としていました。夕暮れになり、やっと赤黒毛馬を見つけ一安心。樹木が茂る間道を沢伝いに下っていったところ、突然暗がりから強い光が射し、馬が高く跳ね上がり、さすがの義仲も落馬してしまったそうな。光りの出所は、鏡のような石に月があたり、反射していることがわかりました。ということです。ぜひ、この石を見つけたいものですね。
この石は、拓本で有名らしいのですが、とられすぎて、何が書いてあるかわからないほどです。
ミズバショウが咲いていました。
槻井泉神社。天狗の藤があります。まだ咲いてませんが、いい一本桜の木がありました。
長い階段を上っていくと、立派な本堂もありました。
義仲が戦勝祈願をしたのではないかと思われます。
立派なお屋敷塀ですね。 この辺のおうちは、石垣もふんだんにあり、豊かそうです。(昔はすくなくとも、、、^^)
義仲の一族の長瀬判官代開基の東漸寺。
義仲没後、兵火に遭い、しばらく寺跡のみでしたが、洗馬出身の僧愚底上人によって復興されました。
その後、千葉県松戸市にも東漸寺を開きました。松戸の古文書に、寺の由来や義仲との関係がかかれています。
ここのしだれ桜は、塩尻市天然記念物。お花見にどうぞ。
お昼は、長瀬判官代なべと勝どきがゆをいただきました。
大きななべで、煮ると旨いですね。120名分の食事を一度に炊いた飯沼さん、大変ご苦労様でした。
看板除幕式です。
全4回義仲ウォーキング参加した方、飯沼さんの子供たちなどで。
長瀬判官代は、宇治川の戦いで、壮絶な戦いをし、四条河原で戦死したことが、源平盛衰記に書かれています。
モコたんと百瀬さん。
お疲れ様でした。
2010年03月23日
義仲ウォーキング 小枝御前コース前編 古き歴史香る洗馬
先週に引き続き、22日(月)には、義仲ウォーキングを行ないました。
小枝御前(義仲の御母堂)コースで、古き歴史香る洗馬を歩く、というテーマです。
義仲関連過去記事:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e423453.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e421757.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354412.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354606.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e339581.html
先週登場した猫ちゃんが、気になっていましたが、本日もご主人がおんぶして登場。
10キロ以上もの史跡ウォーキングですが、この6キロの猫ちゃんを背中に歩くすごい方が今回もいて、詳しくお聞きしました。安曇野市明科七貴の百瀬佐武郎さん(65歳)です。いつも、一緒に行動しているそうです。ヒマラヤンとシャムの雑種で、オス5才だそうです。お名前は、「モコたん」。猫は、雑種の方が高いそうです。でも、市民タイムスのあげますコーナーで、知り合ったそうなんです。どこにご縁があるか分かりません。家ではなく、人につく大人しい猫なのだそうです。このふれあいは市民タイムスの今年2月に、第一面トップ記事で紹介されています。
洗馬駅集合。出発10時。今日は、一日よいお天気そうです。
まず始めに、洗馬駅をすぐ出たところの旧洗馬学校跡です。
明治6年に、民家に開設され、松本市の開智学校(重文)を建てた立石清重を棟梁に、明治11年ここに新築移転しました。その偉容から、バビロン城と呼ばれ、屋上には今井兼平洗馬の像が飾られていました。今は、宗賀小学校に在るそうです。
少し、下ったところにある 「あふたの清水」
義仲と今井兼平がここで邂逅(会うという意)し、兼平が義仲の馬の足をここで洗ったという伝承の場所です。
洗馬の地名は、古代からありました。一説にここから、狭(せば)くなるという地形から地名が出来たのでは、とも。
最近は、若い女性で戦国武将のゆかりの地を訪ねる方が増えています。歴女というらしいですね。
歴女とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%A5%B3
ロマンと志のあるタフな男性を求めているということでしょうか。
いまも清水はこんこんと流れています。
中仙道と善光寺街道の分岐点。安政4年に洗馬の小松佐司兵衛らによって建てられた大きな石の永代常夜灯があります。
これと同じものが、終点善光寺にもあるそうです。
この風景をイメージして、安藤広重が中仙道69次の洗馬を描いています。
歩きます。120人ほどの長蛇の列。
木曽義仲の御母堂の小枝御前のお墓がある長興寺に着きました。
飯沼智成さんの解説で、小枝御前を偲びます。
新しく境内に看板を今回建てさせて頂きました。古絵図に、義仲母堂の墓とあります。
昔のお墓は、こういう家の形をしていたそうです。
霜柱を近くで見ると、おいしそうです。
ワッフルかと思ったら、ただのフタでした。
スプリング・スイーツ・フェスティバルの影響?
ひと休憩します。例によって、バナナとお茶です。
長興寺奥にある塩尻市の市名勝指定の美しい庭園です。
庭園からも、義仲ご母堂の墓まで上がれます。
小枝御前(義仲の御母堂)コースで、古き歴史香る洗馬を歩く、というテーマです。
義仲関連過去記事:http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e423453.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e421757.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354412.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e354606.html
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e339581.html
先週登場した猫ちゃんが、気になっていましたが、本日もご主人がおんぶして登場。
10キロ以上もの史跡ウォーキングですが、この6キロの猫ちゃんを背中に歩くすごい方が今回もいて、詳しくお聞きしました。安曇野市明科七貴の百瀬佐武郎さん(65歳)です。いつも、一緒に行動しているそうです。ヒマラヤンとシャムの雑種で、オス5才だそうです。お名前は、「モコたん」。猫は、雑種の方が高いそうです。でも、市民タイムスのあげますコーナーで、知り合ったそうなんです。どこにご縁があるか分かりません。家ではなく、人につく大人しい猫なのだそうです。このふれあいは市民タイムスの今年2月に、第一面トップ記事で紹介されています。
洗馬駅集合。出発10時。今日は、一日よいお天気そうです。
まず始めに、洗馬駅をすぐ出たところの旧洗馬学校跡です。
明治6年に、民家に開設され、松本市の開智学校(重文)を建てた立石清重を棟梁に、明治11年ここに新築移転しました。その偉容から、バビロン城と呼ばれ、屋上には今井兼平洗馬の像が飾られていました。今は、宗賀小学校に在るそうです。
少し、下ったところにある 「あふたの清水」
義仲と今井兼平がここで邂逅(会うという意)し、兼平が義仲の馬の足をここで洗ったという伝承の場所です。
洗馬の地名は、古代からありました。一説にここから、狭(せば)くなるという地形から地名が出来たのでは、とも。
最近は、若い女性で戦国武将のゆかりの地を訪ねる方が増えています。歴女というらしいですね。
歴女とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%A5%B3
ロマンと志のあるタフな男性を求めているということでしょうか。
いまも清水はこんこんと流れています。
中仙道と善光寺街道の分岐点。安政4年に洗馬の小松佐司兵衛らによって建てられた大きな石の永代常夜灯があります。
これと同じものが、終点善光寺にもあるそうです。
この風景をイメージして、安藤広重が中仙道69次の洗馬を描いています。
歩きます。120人ほどの長蛇の列。
木曽義仲の御母堂の小枝御前のお墓がある長興寺に着きました。
飯沼智成さんの解説で、小枝御前を偲びます。
新しく境内に看板を今回建てさせて頂きました。古絵図に、義仲母堂の墓とあります。
昔のお墓は、こういう家の形をしていたそうです。
霜柱を近くで見ると、おいしそうです。
ワッフルかと思ったら、ただのフタでした。
スプリング・スイーツ・フェスティバルの影響?
ひと休憩します。例によって、バナナとお茶です。
長興寺奥にある塩尻市の市名勝指定の美しい庭園です。
庭園からも、義仲ご母堂の墓まで上がれます。
つづく
2010年03月18日
源義高・中原兼遠を偲ぶ 義仲ウォーキング
巴御前。西川かおりさん画。
木曽義仲。西川かおりさん画。
14日(日)に行なわれた 源義高・中原兼遠を偲ぶ~ぶらり松本街歩き の模様を掲載します。
受付を担当する、久野恵美子さん、深沢和歌子さん。
県内外より多くの方たちが参集されました。
今回の義仲ウォーキングについて概略を説明する飯沼智成さん。
旗揚げした参加者、80人くらいの大行列が、松本市内を散策。
先導は、北村俊郎さん。
元町の七本松跡。信濃の国、国府の権の守であった中原兼遠の屋敷があった地域。
清水が沸く槻井泉神社。ここの聖水を清水冠者義高の産湯に使ったといわれています。
木曽山義仲院長称寺は、旭冠者義基(清水義高の弟)の開基によるお寺です。寺宝に義仲太刀(二尺三寸)もあるそうです。
境内には、梅の花が香っていました。
バナナを食べて小休憩。
地蔵尊出現地碑。松本城の東北(市役所周辺)から、1587年頃(安土桃山時代)に掘り出された一体のお地蔵。1188年(木曽義仲没後4年の作で伊豆石でできています。)の銘が刻まれていて、松本平で最も古い石仏です。鎌倉から、清水義高を供養するために贈られたものといわれています。
この地蔵尊が現在御安置されているのが、生安寺です。
生安寺地蔵尊の看板を今日から一般公開しました。
地蔵尊のいわれは↓
http://ikiikiikiyou.naganoblog.jp/e421757.html
6キロもある猫ちゃんをおんぶしてきた方もいました。にゃ~んと。
生安寺御住職の講和。由緒あるお寺のいわれを解説。何回も引越しをしてきた生安寺は、昭和37年に現在の蟻ヶ崎に移されています。
お昼は、大鍋で煮た野菜たっぷりの兼遠なべ(力うどん)と勝どきがゆを食べました。
兼遠なべ(力うどん)
これだけの人が境内で食事をするのは、初めてでしょう。
巴御前ゆかりの落馬観音。名馬連銭葦毛の碑があり、松本城主がこの前を通る時は、必ず馬から降りて敬意を示したといいます。
国宝松本城。いいお天気で、観光客もたくさん来ていました。
この他、当日は、貞享義民関係、川島芳子関係の史跡も見て歩きました。
義仲ウォーキングの後は、勤労者福祉センターで、木曽義仲と松本平の講演会「義仲・巴 その魅力」を行ないました。
一般参加者は120名程度でした。
基調講演は、松本・義仲復権の会穂苅甲子男会長。舞台を飾るお花は、上條香月先生献花の桜。
シンポジウムのパネリストは、富山からお越しいただいた巴御前史学会顧問得能康生さん、義仲巴ら讃える会理事で漫画家の西川かおりさん、松本・義仲復権の会の長瀬啓一智さん、コーディネーターは、深沢和歌子さん。
NHKの大河ドラマになった時の義仲・巴の配役は、誰がよいかという夢も熱く語り合いました。
西川さんの漫画原画も展示。
巴が可愛いですね。
女の武将としては、日本一です。
打ち上げは、中町の謝蘭にて。
中国人のお茶を注ぐ技。
一本締め。お疲れ様でした。
松本・義仲復権の会公式ホームページ
http://kiso-yoshinaka.com/
イベント予定など載っています。
2010年03月15日
生安寺地蔵尊 案内看板設置
松本市蟻ヶ崎の生安寺に、松本・義仲復権の会で13日看板を設置しました。
素人の私たちでも、なんとか自分たちで、建立することが出来ました。
このお地蔵様は、松本では一番古いものです。
元暦元年(1184年)1月、木曽義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれました。
父・義仲が討たれたことにより、人質として頼朝の娘大姫のいいなずけとして、鎌倉にいた義高の立場は悪化します。4月21日、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとします。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた海野幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出するのでした。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じました。義高は4月26日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党藤内光澄に討たれました。享年12才。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまいます。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日、藤内は晒し首にされました。
この頃から、政子が頼朝に、愛想を尽かし、任せて置けないと政治面でも仕切るようになったのではないかと思います。
この地蔵は、大姫と政子が源義高のふるさと松本に供養のため贈ってきたものといわれています。
その後、大姫は、すべての縁談を断り、嘆き哀しんで、病の末20歳前に亡くなっています。
悲恋の地蔵尊は、幼い二人の恋愛のひと時の幸せを想いだすかのように、やさしく微笑んでいます。
2009年11月26日
清水寺 木曽義仲の関連?
清水の舞台から飛び降りたら、、、、。
ここは、山形村の清水寺(きよみずでら)。
京都の清水寺の元になったお寺だそうです。
舞台の向こうは、もう1200mの標高だけあって雪の世界。
珍しい石造りの仁王像。阿吽二体の内の阿の方。
人間も、口をいつもポッと開けている人と閉じている人がいるのは、道理か。
阿吽二体の内の吽の方。こわっ!
仁王門から山門へ延びる参道にある百体観音。
本堂。本尊は清水様式と呼ばれる千手観世音菩薩像。京都清水寺の千手観世音菩薩像と同じ様式。同じ 「きよみずでら」と呼ぶ京都の清水寺との縁は、深そう。昭和初期、70歳を超えた京都清水寺の管主のもとに、山形村の清水寺の20代のきれいな娘さんが嫁いだ話は、有名ですね。
朝日村から、登るルートもあって、朝日村の古川寺が清水寺の里寺と言うことです。
義仲とこの清水寺とのかかわりがあるのではないかと私は最近考えています。
義仲の首は、京都の清水寺の近くに埋葬されているそうですし、、、。